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プログラミングやおもちゃを通じて、子供の想像力や考える力を育みたい。 / 前原 浩

北浦和

幼少期から慣れ親しんだ「ブロック」

━ なるほど。そうして現在運営しているカフェのオープンに繋がるのですね。
社会人になってからダイヤ、ナノ、レゴブロックと関わりがあって、まさにブロック博士ですね(笑)。
ブロックは幼少期から好きだったのでしょうか。

前原さん図らずも、さまざまなブロックに関わっていましたね(笑)。

幼少期から好きでした!
生まれつき心臓の病気をもっていて、家の中で過ごすことが多かったんですけど、よく色々なものをバラして、バラしたものをまた組み立てて遊んでたんです。
その様子を見てか、周りの大人がプラレールや戦隊ロボットといった既に完成されたおもちゃではなくて、バラけていて、好きに組み合わせられるブロックばかりくれるようになったんです。
特別、ブロック遊びが好きなわけではなかったんですけどね(笑)。

━ 周りの大人の勘違いもブロックに親しむきっかけになったのですね(笑)。
いつごろまでブロック遊びにハマっていたのでしょうか?

前原さん小学校高学年のときに心臓の手術をして、ある程度体調が良くなってからは外遊びにハマり始めたんですよ。
それからはブロック遊びの頻度は減りましたね。
当時住んでいたのは埼玉の所沢だったんですけど、自然が豊かで、よく友達と川に行って釣りをしていました。

そのころも相変わらず0から1を作ることが好きで、釣りでいえば毛鉤とかルアーを自分で作ってましたね。
餌にするウスバカゲロウという黒い虫を、観察してまねたり。

━ ウスバカゲロウはどのように作るのですか?

前原さんウスバカゲロウの形に似せた鳥の羽に、ビーズで目ん玉をつけると近しいものが出来るんですよ。

━ なるほど!すぐに手に入るものでも作ることが出来るのですね。

前原さん当時は色々と試しましたね。
最終的には釣れる方が楽しいのでエサ釣りに戻っていきましたけど(笑)。

━ 釣りにハマっていたのはいつ頃までなんでしょうか?

前原さん中学生くらいですかね。部活や勉強と並行してやっていた感じです。

━ 部活は何を?

前原さんバレーボール部に所属していました。
ただ、その時期に身長が急に伸び始めまして。その成長に体が追いつけず怪我をしたり、貧血で倒れることもあったので練習を長期間休む時期もありましたね。

━ 冷房がついていない体育館ってサウナくらい湿度が高くて暑いですもんね。夏場なんて特に。

前原さんそうですね。心臓の病気もあって、体力自体そこまである方ではなかったですしね。

━ 休んでいた時期は何をされていたのですか?

前原さん高校受験の勉強に時間を割いてましたね。
勉強は出来た方なんですけど、あまり続けたくないという想いがあったんです。
その時期に、大学の附属に入れば大学受験の勉強をする必要がないことに突如気づいて。

━ 閃いたんですね(笑)。

前原さんはい(笑)。ただ、大学の附属は大抵、私立なので公立の学校よりお金がかかってしまうですよね。
親には、もし大学受験で浪人をしたら同じようにお金がかかることを説明して納得してもらいました。

━ 高校生活はいかがでしたか?

前原さん高校はエスカレータ方式で進学できることもあって、勉強はあんまりしてませんでしたね。
ぬるま湯でした(笑)。その分、コンピューターをいじってゲームを作ったりしてましたね。

━ 前原さんが高校生の時ってコンピューターが出始めたくらいですかね。

前原さん1980年くらいで、家庭用のコンピューターが出始めた時期です。
まだ一般には普及していなかった時代ですが、新しいもの好きの親父が購入してきたんですよね。
でも本人は買うだけでいじらないっていう(笑)。それを借りて遊んでた感じです。
使い方をもっと知りたいと思って、高校の部活はコンピューター同好会に入りました。

━ どのようなゲームを作っていたのですか?

前原さんプログラミングを使って、ゲームセンターにあるインベーダーゲームのようなゲームを作っていました。
それを文化祭とかで披露していましたね。当時のPCはかなり大きかったので、学校までタクシーで運んだのを覚えています(笑)。

━ 高校生の時から既にプログラミングを始めていたのですね! その頃はブロックとの関わりはありましたか?

前原さんブロックでは、ほとんど遊ばなくなっていましたね。ですが、大学進学後にいくつかのおもちゃの会社でアルバイトをしていて、その仕事の一つでお店に飾るブロックを作成する機会はありましたね。

━ 大学に入ってからまた、ブロックと関わり始めたのですね。それは自ら?

前原さんいえ、友達の紹介で始めたので自ら希望したわけでは全然なくて。
バイトとしてはすごく面白かったですけど、当時はそれ以上に車にハマっていましたね。
よく改造して遊んでいました。

━ 1980年くらいだとハシリ屋とか暴走族が全盛期の頃ですよね(笑)。どちらによく行っていましたか?

前原さん釣りをよくしていたので、山や川に行く機会が多かったです。
当時は、今では一般化したSUVみたいな一般道でも山でも走れるような車がなかったんですよね。
当時はなかったSUVのような車を自分で開発したくて、車のメーカーに就職したいと思っていました。

━ 大学を卒業してすぐに、カワダに就職するわけではないのですね。

前原さんはい、初めはトラックで有名な「いすゞ自動車」に就職したんですよ。
でも、僕が入った年に、うちは来年から乗用車はもうやりませんよと。
これ以降、トラックだけですよと言われまして(笑)。

━ 乗用車が作りたくて入社したのに、まさかの展開(笑)。

前原さん部署も希望していた開発ではなく、車のサービスマニュアルを作る部署に配属されて。
仕事の内容としては、車を一度バラして、また組み立てながら修理する方法をマニュアル化するというものでした。

━ 幼少期にハマっていた遊びと繋がりますね。

前原さんそうなんです。それはそれで面白かったんですよね。
会社として製造する最後の乗用車を担当できましたし。

━ その後は転職を?

前原さんはい。一年ほど働いた後に転職をしました。
いすゞで働いているうちに、企画から開発まで一括で担当できる仕事がしたいと思うようになりました。
車の会社はどこも規模が大きく仕事が細分化されているので、それは難しいなと感じて。
そんな時にダイヤブロックを企画・販売する「カワダ」を見つけたんです。
ブロックは幼少期から親しみがあるし、大学時代にアルバイトで関わっていたし良いなと思いまして。